第一テサロニケの書 | The Book of 1 Thessalonians | 17
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 Published On Apr 13, 2024

異邦人に奉仕する者として定められた使徒パウロは終末論を強く強調して、第一・第二テサロニケを書いている。教会が終末の出来事に関することを明確にされる必要があったからである。逆に、主は福音書での終末論は全般的にイスラエルに関連していると説明している。

テサロニケの教会は激しい迫害を受けていた。道徳に関する混乱や時には弱い労働態度などの内部の問題も彼らを悩ませた。書簡の構成は、主がいつ戻るかについての様々な考えへの解決でそれぞれの章が終わっている。一章で、使徒はテサロニケ人の困難と、マケドニアとアカイアの信者の模範になっていることを思い起こしている。この時点では、彼らは来る怒りから彼らを救ってくれる主が天から戻ってくるのを待つことに心を留めている。「来る怒り」の概念が、書簡の原動力を決定する。この怒りは永遠の天罰ではなく、天罰の前兆である:大患難。2章でパウロは、強い労働態度とテサロニケ信者への優しさを見せ、彼らが主の来る時に主の前で彼の冠になるという声明で締め括る。

3章でパウロは、皆この地球では試練に定められているが、聖徒と主イエスの再臨で彼らが完全に設立されるとテサロニケ人に思い出させる。4章では、道徳問題を言及する。神の不道徳への復讐を理由にテサロニケ人に彼らの器を純粋に保つように警告する。次に、パウロは彼らの信者の来世に関する質問に答えることに移る。少ない節で、キリスト自身が天から降りて、信者が空で主と会うために取り上げられることを説明する。注目すべきことは、彼は大患難、反キリスト、黙示的要素について何も触れない。対して5章では、不信者は「平和と安全」と言うが、彼らにいきなり破滅が降りかかり逃げられないと言う。使徒は単純に神が我らを怒りに定めたのではないと言う。これは大患難を意味する。なぜか。信者はすでにキリストと共に天にいて、不信者は地に残り大患難にあう。章は聖化の完成と我らの主イエス・キリストの再臨で終わる。

適応:テサロニケの教会は重い迫害に晒されていた。彼らの慰めは主の再臨と大患難を耐えなくても良いことであった。さもなければ、使徒は彼らに大患難の準備をするように言ったはずだ。しかし、神は我らを怒りに予定していないことを伝えた。今日の信者は終末論について様々な見解を持っている。この題目について堅実な釈義によって伝統的な教派の見解を調べよう。

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