ENKA(演歌엔카) 坂本冬美(Sakamoto Huyumi) ♪君こそわが命/ 祝い酒 / 喝采 / 岸壁の母 /傷心 // 祝い酒 2002 / 無法松の一生 / 岸壁の母 /ふたり咲き その他
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 Published On Dec 16, 2021

坂本冬美(Sakamoto Huyumi) ;
1986年、NHKの『勝ち抜き歌謡天国』(和歌山大会)で名人となり、「関西演歌大賞カラオケコンクール」でも優勝。『勝ち抜き歌謡天国』で歌唱指導を担当していた猪俣公章の勧めで上京し、同年4月から11月まで猪俣の内弟子を務める。
本名が芸名になり、デビュー直前になったところで、師匠の猪俣は冬美の「冬」の字を寒い、寂れたようなイメージだと嫌って「冬美を『ふゆみ』と平仮名の芸名にして欲しい」と主張したが、その時既各種印刷物など準備が進んでおり、それらを全部刷り直すのに資金も手間もかかるなどの理由からスタッフは猪俣を説得し直して、ようやく折れて「坂本冬美」としてデビューすることとなった。
1987年に「あばれ太鼓」でデビュー。同曲は80万枚を超える売上を記録し、『第29回日本レコード大賞』などで数々の新人賞を獲得する。初期は同曲の他、「祝い酒」「男の情話」「男惚れ」など男歌が中心だった。本人は猪俣に「この歌は売れませんね」と言ってしまい、大目玉をくらった。
1991年に細野晴臣・忌野清志郎とHISを結成。アルバム『日本の人』発売。忌野とはそれ以前にもRCサクセションのアルバム『COVERS』に参加するなど、接点があった。2005年に発売された、NHKラジオ第1『旅するラジオ こんにちは!80ちゃんです』のテーマ曲「Oh, My Love」も、当初HISのユニットで発売予定だったが、坂本冬美個人名での発売となった。芸術選奨新人賞大衆芸能舞踊部門を受賞。
1993年の第44回NHK紅白歌合戦に出場した際、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の主題歌「ムーンライト伝説」を森口博子、西田ひかると共に歌い、坂本はセーラーマーキュリーに扮していた。
火ざくら伝説/大下英治・著【1996年4月6日発刊】  内容は坂本冬美の誕生からデビュー、10周年を迎えるまでの軌跡を辿ったものである。
1997年1月13日にはNHK総合テレビの音楽番組『ふたりのビッグショー』にさだまさしと共に出演。この時、2人で『秋桜』を唄ったが、歌詞の内容に感極まって涙声になる一幕があった。
歌手復帰のきっかけとなったのは、実家のテレビで視た二葉百合子の65周年リサイタルで「岸壁の母」を聴いた時に、坂本自身大変感銘を受けた事からだった。その時に坂本は「私が縋れるのは二葉先生だけ。先生のような強い喉と精神力を作れば又歌えるかも」と思い、事前に手紙を送った上で直接二葉の自宅を訪ねた。坂本は「歌に対しての自信を完全に失い、人前で歌うのが怖くなってしまったのです。引退しようとも本気で考えていました」と述べた後、二葉は「あなたも『歌の壁』にぶつかったのね。その歌の壁に気づいたというのは、あなたが成長している証拠で、とても素晴らしいことなの。私だって今迄何回も歌の壁にぶつかって、その度に乗り越えて来たからこそ今があるのよ。壁に気付かない人もいるんだから」等と、温かい励ましの言葉を掛けて貰ったという]。その後2002年11月から二葉の元でレッスンを始め、完全復活へとつなげた。
休業から丁度1年後の2003年4月1日、『NHK歌謡コンサート』へ生出演を果たし、芸能活動の再開を宣言。同年、紅白歌合戦にも返り咲きを決め、デビュー曲「あばれ太鼓」を歌唱するが、曲の終盤で思わず涙声となる場面があった。
2006年第3回ザ・ビューティー・ウィーク・アワード「着物、アップ髪が最も似合う人」受賞。2008年10月、「和歌山県ふるさと大使」の第一号となった。
2011年5月22日、和歌山県田辺市の新庄総合公園で行われた「第62回全国植樹祭」の記念式典で天皇・皇后の前で国歌「君が代」を独唱する。
2016年、毎日芸術賞特別賞受賞。
2020年4月17日、「俺でいいのか」のギター伴奏バージョンの発売を記念した生配信を兼ねたイベントが新型コロナウイルスの影響で中止になり、その代わりとして自宅での歌とトークの配信企画を自身のYouTubeチャンネルで行う。
2020年11月11日にはサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞作曲を手掛けた「ブッダのように私は死んだ」が発売され、坂本がデビューした際に抱いていた「いつか桑田に曲を書いてもらう」という夢が叶う事となった。

曲 : 君こそわが命
「君こそわが命」(きみこそわがいのち)は、1967年2月にリリースされた水原弘のシングルである。水原弘の代表曲のひとつである。
作詞は川内康範、作曲は猪俣公章による。
水原弘はデビュー曲「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞した経歴を持つものの、その後表舞台から遠ざかり借金や病気なども抱えてしまうなど不遇な時代に入り低迷していた。しかし、本楽曲がヒットしたことによって当時『奇跡のカムバック』とまで言われた。
但しこのカムバックも長続きはせず、相変わらず水原の酒浸りに頼った生活に更生する事は無かった。それから11年後の1978年7月に、水原は42歳の若さで逝去となる。
水原は本楽曲で1967年の「第18回NHK紅白歌合戦」に5年ぶり4回目の出場を果たした(以降、1973年・第24回まで7年連続出場)。その後、1969年の「第20回NHK紅白歌合戦」と、生涯最後の紅白出場となった1973年の「第24回NHK紅白歌合戦」でも歌唱され、紅白では計3回歌唱された。
1♬
あなたをほんとは さがしてた
汚れ汚れて 傷ついて
死ぬまで逢えぬと 思っていたが
けれどもようやく 虹を見た
あなたのひとみに 虹を見た
君こそ命 君こそ命 わが命
2♬
あなたをほんとは さがしてた
この世にいないと 思ってた
信じるこころを なくしていたが
けれどもあなたに 愛を見て
生まれてはじめて 気がついた
君こそ命 君こそ命 わが命
3♬
あなたをほんとは さがしてた
その時すでに おそかった
どんなにどんなに 愛していても
あなたをきっと 傷つける
だからはなれて 行くけれど
君こそ命 君こそ命 わが命

曲 : 喝采
作詞 : 吉田旺
作曲 : 中村泰士
喝采」(かっさい)は、ちあきなおみの楽曲で、13枚目のシングルである。1972年9月10日に発売された。発売元は日本コロムビア。

いつものように幕が開き
恋の歌うたうわたしに
届いた報らせは
黒いふちどりがありました
あれは三年前
止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に
ひとり飛び乗った
ひなびた町の昼下がり
教会のまえにたたずみ
喪服のわたしは
祈る言葉さえ失くしてた

つたがからまる白い壁
細いかげ長く落として
ひとりのわたしは
こぼす涙さえ忘れてた
暗い待合室
話すひともないわたしの
耳に私のうたが 通りすぎてゆく
いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは
今日も恋の歌 うたってる

曲 : 祝い酒
Celebratory Sake
発売 : 1988年
作詞:たか たかし
作曲:猪俣公章
1♬
浮世荒波 ヨイショと越える
今日はおまえの 晴れの門出だよ
親が咲かせた 命の花が
二つ並んだ 鶴と亀
笑顔うれしい 祝い酒
2♬
五臓六腑に 樽酒しみる
酔うてめでたい 唄のはなむけさ
七つ転んで 八つで起きろ
明日は苦労の ふたり坂
縁がうれしい 祝い酒
3♬
花も嵐も 人生航路
愛が舵とる 若い二人だよ
吹けばとぶよな 小さな木でも
枝は栄える 葉もしげる
門出うれしい 祝い酒

曲 : 岸壁の母
発売 : 1954年
作詞:藤田まさと
作曲:平川 浪竜
歌謡浪曲 岸壁の母(がんぺきのはは)とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。その一人である端野いせをモデルとして流行歌(1954年など)、映画作品のタイトルともなった。

曲 : 無法松の一生
発売 : 1939年
作詞:吉野 夫二郎
作曲:古賀政男
小倉生れで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松

~度胸千両~
空にひびいた あの音は
たたく太鼓の 勇み駒
山車の竹笹 堤灯は
赤い灯にゆれてゆく
今日は祇園の 夏祭り
揃いの浴衣の 若い衆は
綱を引き出し 音頭とる
玄海灘の 風うけて
ばちがはげしく 右左
小倉名代は 無法松
度胸千両の あばれうち

泣くな嘆くな 男じゃないか
どうせ実らぬ 恋じゃもの
愚痴や未練は 玄海灘に
捨てて太鼓の 乱れ打ち
夢も通えよ 女男波(みょうとなみ)

曲 : ふたり咲き
作詞:麻こよみ
作曲:岡千秋
1♬
夏の陽射しも 木枯しも
両手広げて よけてやる
俺にあずけろ おまえの命
おまえの命
広い世間の めぐり逢い
心ひとつで ふたり咲き
2♬
すぐに泣く癖 なみだ癖
白いうなじに か細さよ
つらい過去は 忘れろ捨てろ
忘れろ捨てろ
そっと小さな 手のひらに
乗せてあげたい 幸せを
3♬
泣くも笑うも ひとりなら
生きる明日に 夢がない
そばに居てくれ これから先も
これから先も
遅い春ほど あたたかい
俺とおまえと ふたり咲き

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